創業70周年

History創業からの想い

Challenging

70年前。国を支えるため戦時中に創業。
空襲、高度成長期、震災など、
激動の時代を鉄道と共に歩んできました。

Greetingごあいさつ

ホームページ開設にあたり決意を新たに。
「誠実と努力」で品質の良い車両を提案し続けます。

当社は令和2年7月1日をもちまして創立70周年を迎えました。
これもひとえに皆様のご支援、ご愛顧の賜物と心から感謝いたしております。
このたび創立70周年を迎えることができましたのは、多くのお客様に支えられ、皆様のご指導とお力添えのおかげと深く感謝しております。
私が社長に就任し早くも6年が経過しましたが、思うことは当社の経営信条である「誠実と努力」に尽きるということです。品質良い車両の提供し続け、お客様であります電鉄各社様からの信頼を維持していくことこそが経営信条に繋がっているものと考えています。
この70周年を契機として、社員一同が決意を新たにし、美しい車両を提供し続け「安心」をお届けすることを誇りにし、社会に貢献できる会社を続けていきたいと思っております。
今後とも、なにとぞご支援ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

令和3年3月吉日

Kamuro Hirotaka代表取締役社長 禿 裕隆

代表取締役社長 禿 裕隆

President

社長インタビュー
社長インタビュー

Kamuro Wahichi創業者 禿 和七

訓練中に大怪我をした創業者は、国に報いることができない悔しさをバネに
戦艦の部品製作を開始。やがて車両の定期検査や改造へと事業を広げました。

当社の創業者である禿 和七は、1908年(明治41年)11月19日、兵庫県武庫部武庫村で生まれました。二十歳の徴兵により、朝鮮の平壌で2年間の軍役につくと、異例中の異例で昇進。しかし、部下の指導訓練中、手榴弾の破片が左ひざに当たって負傷、召集を解除されました。1941年(昭和16年)には太平洋戦争が始まり、下士官として国に報いることができなくなった悔しさから日々を過ごしていたその折、人から溶接技術を使った戦艦の部品製作の話が持ち込まれました。これで国に報いることができるとの思いで、1942年(昭和17年)2月11日に「報國工業所」を設立したのが現・興国車輌株式会社の始まりです。報國工業所の名前には、国に報いたいという真摯な心がよく表れています。

創業者 禿 和七

創業者の信念

  • 一、誠実、努力、堅実であれ
  • 一、節約、倹約、質素を旨とする
  • 一、公私混同しない
  • 一、信仰心を持つべし(人生は運が80%、努力が20%)
  • 一、損得、好き嫌い、欲得ではなく、正しいかどうかによって判断すること
  • 一、信念による行動(他人や偉い人の真似をしても、自分で生きているとは言えない。
    自分の魂で生きていける人だけが、自分で生きているといえる)

Stories興國車輌70年の歩み

技術を磨き、創意工夫しながら鉄道を支えるその歴史には、
様々なドラマがありました。

  • 1942昭和17年

    報國工業所を創業。バルブ溶接を専門にした艦船部品を製作。

    1942年(昭和17年)2月11日、興国車輌の創業者・禿 和七が兵庫県尼崎市に「報國工業所」を設立。尼崎市内にあった東亜バルブ株式会社(戦艦大和の重要弁を製作したバルブメーカーとして有名)と株式会社精機工業所の協力工場として、バルブ溶接を専門にした艦船部品の製作を行う。太平洋戦争に突入してから時間も経っておらず、当時はまだ戦争が始まったばかりのころの戦勝気分に酔いしれていた。

    応召当時の創業者
    応召当時の創業者(後列左)の家族
  • 1944昭和19年

    京阪神急行電鉄(現、阪急電鉄株式会社)と取引開始。

    1944年(昭和19年)4月、京阪神急行電鉄(現、阪急電鉄株式会社、以下、阪急電鉄)と取引開始。阪急西宮工場にて、車両部分の溶接、電気機器格納箱の製作から始まり、車体3年6年定修(定期的な検査や修理)、台車3年定修・配線替・車体改造・貫通路設置を施工。
    翌年、南海電鉄株式会社(以下、南海電鉄)の車体や台車の定修、改造などを受注。

  • 1945昭和20年

    興國車輛工業所として再度出発。戦災車の復旧修復を行う。

    1945年(昭和20年)に終戦を迎えると同時に報國工業所の名称を「興國車輌工業所」へ改称。戦争で被災した鉄道車両の復旧修復に全力を注ぐ。
    1947年(昭和22年)、興國車輛工業所は阪急電鉄、南海電鉄に次いで近畿日本鉄道株式会社とも契約し、事故車の復旧を中心とした定修、改造を担う。

    興國車輛工業所の当時の従業員
    興國車輛工業所の当時の従業員

    Story 01

    空襲で車両は大きな被害を受け、大都市は壊滅状態に。
    終戦と共に艦船部品の製作がなくなると、鉄道車両の復旧へと舵を切る。

    1945年(昭和20年)に入ると、日本本土への空襲も激しくなり、大都市である大阪や神戸など関西圏の都市は壊滅状態となった。主な取引先の阪急電鉄は、神戸や芦屋の駅舎が被災、車両も大きな被害を受け、実際に稼働できる車両は全体の40%に過ぎなかった。8月15日に終戦を迎えると、報國工業所で行っていた艦船部品の製作は完全になくなった。そして、今度は戦後復興のため、阪急電鉄をはじめとする被災した鉄道車両の復旧に努めなければならないと決意した。

  • 1948昭和23年

    3月、淡路交通と取引開始。南海加太線の旧車両を購入し、天下茶屋工場において6年定修を行い、新装車を深日港より洲本へ輸送。これが、事業拡大のきっかけとなる。
    5月、奈良電気鉄道と取引開始。田辺工場にて、車体外板張替、車体塗装、車体内部改造を施工。特に、ドアエンジン取付工場は全車両を施工。
    7月、信貴生駒電鉄と取引開始。車体3年定修を施工。

    淡路交通へ納入した新装車
    淡路交通へ納入した新装車
  • 1950昭和25年

    興國車輛株式会社を設立

    関西の鉄道網の復旧が急ピッチで進む中、1948年(昭和23年)、奈良電気鉄道、信貴生駒電鉄と取引を開始。
    淡路交通の新装車から2年後の1950年(昭和25年)7月1日「興國車輌株式会社」を設立。代表取締役社長は禿和七、総勢11名のスタートであった。

    初出式
    設立当時の興國車輛の初出式
  • 1955昭和30年

    南海電鉄の「なると号」と「あわ号」を製造を担当

    1948年(昭和23年)、南海電鉄による大阪ー四国間の輸送力の強化を受けて、当社が連絡急行列車「なると号」「あわ号」の製造を担った。「なると号」は1955年(昭和30年)3月22日、「あわ号」は1956年(昭和31年)に竣工した。
    1961年(昭和36年)、南海電鉄が和歌山電気軌道株式会社を吸収合併したことで、当社は高松車庫(車両基地・車両工場)での事故車両などの工事も請け負う。

    なると号
    竣工した3両編成の「なると号」

    Story 02

    つなぎ目の処理の美しさ、むらのない塗装など
    現場の職人の技が光る車両には、「興国車輌」の銘板が取り付けられた。

    「なると号」は灰白色とココア色のツートンカラー、「あわ号」は灰白色と水色で旅客の好評を博した。図面どおりに納まらない加工は、職人の熟練の技と勘に任せられていた。つなぎ目の処理の美しさ、むらのない塗装、納まりの良さなど特に作業が難しい部分は現場の職人たちの腕の見せ所だった。新造車の車内には、南海電鉄のシンボルマークと一緒に「昭和29年 興国車輌 製造」と刻まれた楕円形の車内銘板が取り付けられ、これにより関西の鉄道業界に「興國車輛」の存在を印象づけた。

    車内銘板
    「なると号」に取付けられた車内銘板
  • 1967昭和42年

    南海電鉄の天下茶屋工場において、ATS(自動列車停止装置)設置工事の施工業務に従事。

    4月、南海電鉄の天下茶屋工場においてATS設置工事の施工業務に従事。後に、南海電鉄社長から感謝状を授与される(1968年10月)。同月、阪急電鉄ATS取付工事の竣工に貢献。
    7月、姉妹会社株式会社興和サービスステーションを設立。

  • 1968昭和43年

    阪急電鉄との取引強化。阪急正雀工場の完成とともに当社従業員も移転。

    阪急電鉄の電車線電圧を1500Vに統一する切り替え工事、ATS取付工事の受注など阪急電鉄との取引が増加する。その頃、高度経済成長を背景に関西圏では都市化が進み、取引先である阪急電鉄の路線の旅客人員数が10年前の2倍強となった。1968年(昭和43年)、阪急電鉄が2工場を統合した新工場を正雀に建設すると同時に、当社も全ての従業員が新工場に移転、新しいスタートを切った。

    正雀工場へ移転した従業員
    正雀工場へ移転した従業員
  • 1969昭和44年

    東急車輛製造やアルナ工機など取引が拡大すると同じ時期に、南海電鉄からの受注が減少。

    1969年(昭和44年)9月、東急車輛製造と取引開始。大阪府堺市鳳工場において新造車両の配線工事を施工。1970年(昭和45年)には南海電鉄からの受注が減少する。
    1971年(昭和46年)3月、アルナ工機と取引開始。尼崎工場において新造車両の車体内装工事を施工。
    1974年(昭和46年)10月、阪急電鉄の冷房改造工事を担当、施工開始。

  • 1977昭和52年

    阪急電鉄のブレーキ保安対策と3枚扉化工事を担当。

    人口の大都市集中により鉄道の輸送力増強と混雑緩和が大きな課題となる中、当社は、阪急電鉄の既存車両の3枚扉化工事を担当した。

    Story 03

    2枚扉で設計された車両を3枚扉にするためには、
    耐久性やデザイン性という難題が待っていた。

    車両を3枚扉化にするためには、2つの難題が待っていた。1つは、車両の中央に3枚目の扉を設けた場合の強度と耐久性の問題、もう1つは、外見の美しさを保ったまま3枚扉化できるかどうかというデザイン性の問題。基本的な設計は阪急電鉄が行ったが、実際に中央部に扉用のスペースを作る作業となると、鋼材をどこに入れるか、扉開閉用の装置、電気配線をどうするかという課題が出てきた。当社の既存車両の改造などで蓄えたノウハウと技術を役立てながら、様々な難題を見事クリアして3枚扉化を成し遂げた。

  • 1986昭和61年

    阪急電鉄が所有する全ての車両の冷房化に貢献。

    昭和40年代半ばより進められていた、阪急電鉄の通勤電車の車両冷房化を当社が担当。正雀工場にて鉄工班、塗装班、電工班、組立班の総動員態勢で臨み1986年(昭和61年)15年をかけ阪急電鉄の日本初の通勤電車の冷房化率100%達成に貢献した。これにより、当社は同年4月に阪急電鉄の柴谷貞雄社長から感謝状が贈られた。

  • 1987昭和62年

    本社新社屋の完成。その4年後、二代目社長の就任。

    1981年(昭和56年)、阪急電鉄の表示幕装置設置、スイープファンの取り付け、クーラーサーモスタットの取り替え、車体排障器補修に従事、1982年(昭和57年)には救援車の建造を行う。
    1987年(昭和62年)2月、大阪市西区九条南に本社社屋が完成。事業も順調に推移。
    1991年(平成3年)11月創業者で社長の禿 和七が逝去。同年11月、禿 裕和が社長に就任。

  • 1993平成5年

    2月、阪急電鉄の車椅子スペース設備工事の竣工に貢献。4月には、当社が阪急電鉄社内の沿線案内枠を取り付けるとともに、Hマークを取り外し、新紋章への取り替え工事を実施。

  • 1995平成7年

    阪神・淡路大震災の復旧作業に貢献。

    1995年(平成7年)1月17日5時46分、M7.3の阪神・淡路大震災が起こる。その日の午後、復旧した列車や車などを使って正雀工場に到着した当社の従業員たちは、阪急電車の被害状況を確認するため西宮車庫、平井車庫(宝塚市)に向かった。平井車庫は天井吊りの足場が車両に食い込み、車両を取り出すためには工場の足場の修理から始めなければならないほどひどい状態であった。当社は地震翌日から復旧作業を行い、5ヶ月後の6月12日には神戸線全線が開通するに至った。予定より8ヶ月早い全線開通だった。

    Story 04

    被災車両の中にはアルミ材を使用した車両も含まれ、
    当社の熟練アルミ溶接工が大活躍した。

    地震の翌日から全員揃って復旧作業が行われ、正雀工場に次々と被災した車両が持ち込まれた。外板損傷、台車部分損傷、床下空気配管・電気配線損傷など、軽度の損傷の補修は正雀工場で行ったが、修復不可能なものはメーカーに依頼することになった。当時、アルミを溶接できる熟練工は少なく、そのため当社の溶接工が大活躍した。阪急電鉄は1985年(昭和60年)製造の7000系からアルミ材を使った車両の軽量化に乗り出し、それに合わせ当社ではアルミ溶接工の育成を図っていたのである。運び込まれた車両には、3000系、5000系とともにアルミ車両の7000系が含まれていた。

  • 1999平成11年

    正雀工場あげてのISO14001認証取得プロジェクトがスタート。

    1999年(平成9年)4月、ISO14001認証取得プロジェクトがスタート。阪急電鉄と関係会社が一体となり進められる。当社では、禿 裕隆(現・社長)が担当、2年後の2001年(平成3年)阪急正雀工場はISO14001認証取得。

    取得したISO14001認証登録証
    取得したISO14001認証登録証
  • 2002平成14年

    取引先拡大へ。JR西日本向けの車両を手掛ける。

    2月にアールイーテック(現、阪急阪神電気システム)、4月にはアルナ工機から営業譲渡を受けたアルナ車両と取引開始。阪急電鉄車両の5000系リニューアル工事の施工に貢献。
    5月、株式会社ジェイアール西日本テクノスとの取引開始。JR西日本向けの車両検査や車両の改造を行う。
    2月、能勢電鉄と取引開始。乗務員支援装置設備工事、外板マルーン塗装作業を施工。4年後の2006年(平成18年)には能勢電鉄の妙見ケーブルのケーブルカーの車体外板補修塗装を当社が担当。

  • 2005平成17年

    JR西日本の福知山線列車脱線事故が発生。省令の改正により阪急電鉄が進める改造工事に貢献。

    2005年(平成17年)JR西日本の福知山線列車脱線事故が発生。国土交通省は鉄道の安全対策を強化すべく「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」などを一部改正し、翌年施行した。
    当社も、2007年(平成19年)より、阪急電鉄既存車両を対象に、運転状況記録装置を搭載するための改装工事を順次施工。

  • 2006平成18年

    北神急行電鉄(現・神戸市交通局北神急行線)から車体外板塗装補修工事などを受注。

    2006年(平成18年)北神急行電鉄から、車体外板塗装補修工事や車体整備業務、屋上機器洗浄作業などを受注。

    外板塗装工事の作業風景
    北神急行電鉄にて施工した外板塗装工事
  • 2007平成19年

    6月 神戸電鉄と取引開始。鉄道車両の部品製作を施工。
    7月 阪急電鉄7300系、8300系の次世代改良工事向け先頭車両のモデルを試作を当社が担当。
    10月 当社が担当した、阪急電鉄5000系のリニューアル工事が施工終了。

  • 2008平成20年

    阪急嵐山線のリニューアル工事を受注。

    4月 阪急電鉄京都線・神戸線を中心に運転状況記録装置設備工事を当社にて施工開始。
    6月 阪急電鉄京都線の既存特急列車6300系車両のうち3編成を、嵐山線の運用に特化するためのリニューアル工事を受注。当社は、先頭車両の改造を担当。

  • 2009平成21年

    7月 米国ダラス向け新造車を製造。
    11月 北神急行電鉄車両の部品製造を施工。

Awards興國車輌の主な表彰

1967年(昭和42年)
南海電鉄社長よりATS(自動列車停止装置)設置工事の感謝状授与
1986年(昭和61年)
阪急電鉄社長より冷房改造工事全車両竣工の感謝状授与
2013年(平成25年)
厚生労働大臣表彰(大阪府 毎月勤労統計調査)
2020年(令和 2年)
国土交通省総合政策局感謝状授与(鉄道車両等生産動態統計調査)
感謝状
南海電鉄社長より贈られた感謝状
感謝状
阪急電鉄社長より贈られた感謝状